新元号「令和」の出典が万葉集であることはよく知られていますが、その背景にある物語や元号に込められた深い意味までご存じでしょうか。
この記事では、令和の由来となった万葉集の「梅花の歌」について、原文や意味から作者、歌が詠まれた背景までを解説します。
1300年前の日本の文化や人々の心に触れることで、私たちの時代の名前がより特別なものに感じられます。

子どもや生徒に「令和の由来は?」と聞かれたとき、出典や意味をうまく説明できないな…

この記事を読めば、元号の由来から歴史的背景まで自信を持って説明できるようになりますよ。
- 令和の由来となった万葉集「梅花の歌」の原文と意味
- 「令和」という元号に込められた願いと歴史的な意義
- 歌が詠まれた背景「梅花の宴」と作者の大伴旅人
- 万葉集の特色や「令和」ゆかりの地
令和と万葉集「梅花の歌」を解説
新元号「令和」の由来が、日本最古の和歌集である万葉集にあることはご存知の方も多いと思います。
ここでは、その出典となった「梅花の歌」について、原文から現代語訳、元号に込められた意味までを紐解いていきます。
令和の出典は万葉集のどの部分?
新元号「令和」の典拠(由来となった文献)は、日本に現存する最古の歌集『万葉集』です。
具体的には、巻五に収録されている「梅花の歌(うめのはなのうた)三十二首」の序文から引用されました。
この序文は、梅の花をテーマにした32首の和歌が詠まれる前に、その場の状況や感動を漢文で記したものです。
この美しい一節から、新しい時代の名前が生まれました。
【原文】梅花の歌三十二首の序文
それでは、令和の出典となった序文の原文を見てみましょう。
格調高い漢文で書かれており、約1300年前の空気感が伝わってきます。
「初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香」
この一文が、令和の直接の引用元です。
当時の知識人たちが、漢詩や漢文の素養を活かして日本語を表現していた様子がうかがえます。
【書き下し文と現代語訳】で意味を知る
漢文のままでは意味を理解するのが難しいので、日本語の文法に直した「書き下し文」と、現代の言葉に訳した「現代語訳」で内容を確認しましょう。

原文のままだと、どういう意味なのか分かりにくいですね。

書き下し文と現代語訳を比べると、情景が目に浮かぶようになりますよ。
項目 | 内容 |
---|---|
原文 | 初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 |
書き下し文 | 初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす |
現代語訳 | 時は素晴らしい新春の月、空気は清々しく風は穏やかである。梅は鏡の前でおしろいをつけた女性のように白く咲き、蘭は香りの良い飾り物のように香りを漂わせている |
この美しい春の情景を描いた文章から、「令」と「和」の二文字が選ばれたのです。
「令和」という元号に込められた意味
「令和」という元号には、出典となった歌の美しい情景だけではなく、未来への深い願いが込められています。
安倍晋三首相(当時)は、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味を込めたと発表しました。
厳しい冬が終わり、春の訪れとともに見事に咲き誇る梅の花のように、日本人一人ひとりが明日への希望を持って、それぞれの花を咲かせられる日本でありたい。
そのような願いが「令和」という二文字には託されています。
国書からの選定!その歴史的な意義
元号「令和」の選定は、日本の歴史において画期的な出来事でした。
これまでの247の元号のほとんどは、中国の古典である「漢籍」から引用されていました。
しかし、「令和」は初めて日本の古典(国書)である『万葉集』から選ばれたのです。
これは、日本が持つ豊かな文化や長い伝統を象徴する出来事として、大きな意義を持っています。
この歌の作者は誰?大伴旅人とは
この美しい序文を書いたとされる人物が、大伴旅人(おおとものたびと)です。
大伴旅人は、奈良時代の政治家であり、優れた歌人でもありました。
当時、九州の防衛や政治を担う大宰府の長官(大宰帥)として、現在の福岡県太宰府市に赴任していました。
彼は武門の家柄でありながら、風雅を愛する文化人として知られています。
「梅花の歌三十二首」が詠まれた宴は、この大伴旅人が自身の邸宅で主催したものでした。
令和の背景と万葉集の魅力をもっと知る
元号「令和」の背景にある物語を知ると、万葉集そのものへの興味が湧いてきます。
ここでは、歌が詠まれた歴史的背景や万葉集そのものの魅力について、さらに深く掘り下げていきます。
1300年前の日本の文化や人々の暮らしに、思いを馳せてみましょう。
歌の名称 | 詠んだ人 | 内容 |
---|---|---|
貧窮問答歌 | 山上憶良 | 厳しい税の取り立てに苦しむ貧しい人々の生活を写実的に表現 |
あかねさす 紫野行き | 額田王 | 天智天皇と弟である大海人皇子との間で揺れる複雑な恋心 |
万葉集には、「令和」の由来となった歌以外にも、当時の人々の息づかいが聞こえてくるような、心を揺さぶる歌が数多く収められています。
歌が詠まれた背景「梅花の宴」とは?
「梅花の宴(ばいかのえん、または、うめのはなのうたげ)」とは、大伴旅人の邸宅で開かれた梅を鑑賞するための宴会です。
この宴の様子を記した文章が、「令和」の典拠となりました。
この宴が開かれたのは、西暦730年の旧暦1月13日。
当時、九州の行政機関である大宰府の長官だった旅人が、自身の邸宅に32人の役人を招いて催しました。
集まった人々は、見事に咲き誇る梅の花を愛でながら、歌を詠み交わしたのです。

優雅な宴会だったんですね。

はい、当時の貴族の風雅な文化がうかがえます。
このときに詠まれた32首の歌と、その冒頭に記された序文が、万葉集に「梅花の歌三十二首」として収められ、1300年後の現代にまで伝えられています。
そもそも万葉集とはどんな歌集か
万葉集とは、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、日本に現存する最古の歌集です。
天皇や貴族から庶民まで、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められています。
全20巻から成り、収録されている和歌の数は約4500首にものぼります。
最後の歌が詠まれたとされる759年から現在に至るまで、日本の文化や人々の心に大きな影響を与え続けてきました。

誰がまとめたのか、はっきり分かっているのですか?

中心的な編者は大伴旅人の子である大伴家持(おおとものやかもち)という説が有力です。
万葉集は、古代日本の人々の心を知るための貴重な手がかりであり、日本の文学史における不朽の傑作といえるでしょう。
天皇から庶民まで!万葉集の特色
万葉集の一番の特色は、天皇や貴族だけでなく、兵士や農民といった身分の低い人々の歌まで収められていることです。
他の歌集には見られない、この懐の深さが万葉集の大きな魅力といえます。
このため、宮廷での優雅な歌ばかりでなく、家族を思う気持ち、労働の苦しみ、故郷への郷愁など、当時の人々の素朴で力強い感情がストレートに表現されている歌を多く見つけることができます。
例えば、故郷の家族を思いながら九州の防衛に向かう兵士「防人(さきもり)」が詠んだ歌は、読む人の胸を打ちます。

昔の人も今と同じように悩んだり喜んだりしていたんですね。

身分を問わず、人々の「生の声」が聞こえてくるのが万葉集の面白さです。
ページをめくれば、まるで1300年前にタイムスリップしたかのような感覚を味わえるのが、万葉集が時代を超えて多くの人々を惹きつける理由です。
これだけは知りたい!万葉集の有名な歌
「令和」の出典となった歌のほかにも、万葉集には日本人の心に深く刻まれた名歌が数多くあります。
ここでは、教科書にも載っている代表的な歌を紹介します。
万葉集に収められている歌は、社会の現実を鋭く描いたものから、激しい恋心を詠んだものまで、テーマは実にさまざまです。
歌のテーマ | 歌人 | 歌の内容 |
---|---|---|
社会の現実 | 山上憶良 | 「貧窮問答歌」で、税の取り立てに苦しむ農民の悲惨な生活をリアルに描く |
情熱的な恋 | 額田王 | 天皇と皇子の兄弟から愛された女性が、揺れ動く恋心を情熱的に詠む |

恋愛の歌もあるなんて、なんだか親近感が湧きます。

人間の普遍的な感情が詠まれているからこそ、現代の私たちの心にも響きます。
このように、万葉集を読むことで、古代の人々の多様な生き方や感情に触れることができ、その世界は知れば知るほど奥深いものです。
聖地・坂本八幡宮(福岡県太宰府市)
福岡県太宰府市にある坂本八幡宮は、「梅花の宴」が開かれた大伴旅人の邸宅跡と推定される場所です。
そのため、「令和」ゆかりの地として注目を集めています。
もともとは地域の人々が訪れる静かな神社でしたが、2019年4月1日に新元号が発表されて以降、状況は一変しました。
元号発表後、多くの人が訪れるようになり、今では全国から観光客が絶えない人気のスポットになっています。

福岡に行ったらぜひ立ち寄ってみたいです。

歌が詠まれた場所の空気に触れると、より深く万葉集の世界を体感できます。
境内には、「令和」の典拠となった「梅花の歌三十二首」の序文が刻まれた石碑も建てられており、訪れる人々は1300年前の雅な宴に思いを馳せることができます。
よくある質問(FAQ)
- Q万葉集の序文はなぜ漢文で書かれているのですか?
- A
当時の日本には、ひらがなやカタカナといった独自の文字がまだ確立していなかったためです。
そのため、公的な記録や知識人たちの文章は、中国から伝わった漢字を使って表現されていました。
この「梅花の歌」の序文も、当時の教養であった漢文の知識を用いて、美しい日本の情景や心情を書き記したものです。
- Q「令和」という新元号には他に候補があったのですか?
- A
政府は公式には他の候補案を明らかにしていません。
しかし報道によると、日本の古典(国書)と中国の古典(漢籍)から複数の候補が準備されていたようです。
最終的に、日本最古の和歌集である万葉集を出典とする「令和」が、新しい時代への願いを込めて選ばれました。
- Q万葉集の正しい読み方を教えてください。
- A
「まんようしゅう」と読みます。
「万(よろず)」は「たくさんの」という意味を持ち、「葉」は「言葉」や「歌」を指すという説があります。
その名の通り、天皇から農民まで、身分を問わず多くの人々の歌が約4500首も収められている、日本が世界に誇る歌集です。
- Q作者の大伴旅人はなぜ九州の太宰府にいたのですか?
- A
大伴旅人は奈良時代の貴族であり、優れた歌人でした。
彼は当時、現在の福岡県にあった太宰府に、長官(大宰帥)として都から赴任していました。
太宰府は、九州全体の政治や外交、防衛を担う重要な役所です。
梅花の宴は、この任務中に旅人が自身の邸宅で開きました。
- Q「令和」の引用元となった「梅花の宴」は、誰が集まったのですか?
- A
この宴には、主催者である大伴旅人のほか、彼の部下である太宰府の役人たち32人が集まりました。
その中には、有名な歌人である山上憶良(やまのうえのおくら)も含まれています。
見事に咲いた梅の花を前に、当時の文化人たちが歌を詠み交わした、非常に風流な集いだったのです。
- Q元号の由来が発表された後、万葉集との関係で何か変化はありましたか?
- A
新元号「令和」の典拠が万葉集と発表されると、日本中で万葉集への関心が急速に高まりました。
多くの書店で解説書などが品切れになる現象が起こったのです。
また、宴が開かれた場所とされる福岡県の坂本八幡宮は「令和ゆかりの地」として、全国から多くの人が訪れる人気の場所になりました。
まとめ
この記事では、新元号「令和」の由来となった万葉集の歌について、その意味や背景を詳しく解説しました。
最も大切なのは、「令和」には厳しい冬を越えて咲く梅の花のように、人々が美しく心を寄せ合い、希望を持って花を咲かせる未来への願いが込められている点です。
- 令和の出典は万葉集巻五「梅花の歌」の序文
- 作者は大伴旅人で、福岡・太宰府での「梅花の宴」が舞台
- 初めて日本の古典から選ばれた歴史的な元号
- 万葉集は多様な人々の歌を収めた日本最古の歌集
元号の由来を知ることは、私たちが受け継いできた豊かな文化への理解を深める第一歩となります。
この記事をきっかけに万葉集の世界に触れたり、ゆかりの地である太宰府を訪れたりして、日本の歴史をより身近に感じてみてください。
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